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2026年8月11日
2026年特別企画 メッセージと朗読とイラストによる「イエスのたとえ」紹介シリーズ ⑰「二人の祈り」

イエスのたとえ 第17回
「二人の祈り」
9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。12私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
新約 ルカによる福音書18章9~14節
聖書協会共同訳
The Parables of Jesus
17 The Pharisee and the Tax Collector
9 He also told this parable to some who trusted in themselves that they were righteous, and treated others with contempt: 10 “Two men went up into the temple to pray, one a Pharisee and the other a tax collector. 11 The Pharisee, standing by himself, prayed thus: ‘God, I thank you that I am not like other men, extortioners, unjust, adulterers, or even like this tax collector.
12 I fast twice a week; I give tithes of all that I get. ’ 13 But the tax collector, standing far off, would not even lift up his eyes to heaven, but beat his breast, saying, ‘God, be merciful to me, a sinner! ’ 14 I tell you, this man went down to his house justified, rather than the other. For everyone who exalts himself will be humbled, but the one who humbles himself will be exalted. ”
The Gospel According to Luke 18:9~14
The New Testament in English Standard Version
イエスの譬えシリーズ17回目です。4つの福音書でイエスが語られた教えの中で、「譬え」に数えられるのは(定義によって多少異なるが)35~40箇所とされています。今夏で⑳まで紹介してようやく半分ほどです。
今日の譬えは「ファリサイ派と徴税人」と呼ばれるものです。これは「神の国」のたとえとは書かれていません。むしろ神の前に立つ人間の姿、神が招かれる人はだれか、という視点から離されているストーリーです。
「ファリサイ派の人」とは、当時のユダヤ社会で「律法の教師」でした。ユダヤ教の担い手、律法をよく覚えて守り、敬虔な生活を実践する人、社会の中でも人びとの教師や指導者と見なされて好感を以て見られていた人びとです。ところがそのような人物が「自分は正しい人間とうぬぼれて、他人を見下している人々」の典型として登場します。このような誇張的で皮肉な人物描写とすることによって、イエスは地位や身分によって覆い隠されている人間の問題性、また神が人間とは違うものを見て人を認めているかということを人びとに気づかせ、驚きを与え、人びとに目を開かせようとしているとも思えます。また徴税人に対しては人びとはファリサイ派の人とは真逆に見て憎悪し侮蔑していました。ローマ帝国の手先となり下がり、植民地支配を支える徴税システムを担い、人びとの暮らしを圧迫させて貧しくさせている張本人であり、悪人だと見なされていたのです。ローマから雇われた現地人は決して高収入ではなく、その分徴税人たちは治める額以上に民衆から取り立てて、収入を得るしかなかったのです(マルコ2:14)。徴税人たち自身も、支配と搾取の最下層にいる者たちに変わりないのです。
二人は神殿に出向きます。祈るために、とあります。エルサレムの神殿は荘厳で、金で覆われ、日の出の時には反射してまぶしく輝き、遠方からでも美しく見えたそうです。巡礼者たちは神殿の壮大さに圧倒されたそうです。多くの人びとが日々祈りに出向いていたのです。9時と15時には共同体の祈りが皆でささげられ、犠牲のささげものをささげる儀式も行われていました。そして祭司が民を祝福して終わるのです。
ファリサイ派の人の祈りは、今の私たちから見ると自己中心的で他者を見下した祈りのように思われます。ただ、当時のユダヤ社会ではこのような祈りの型があったようです。パウロの手紙にも特徴的です。(ガラテヤ2:15、フィリピ3:5-6)。模範的な信仰の在り方であり祈りであったようです。ファリサイ派の人は、祈る際に、自分の視界に入ったであろう、徴税人を見て、具体的に引き合いに出して祈ったのだろうと思われます。自分が何を実践しているかを告白もしています。それは自分だけでなく隣人のためにも義務を実践しているという内容でした。ただし、この祈りを、天を見上げて大声で祈った時に、その傍らに徴税人がいるのです。周りの人びとも聞いています。どのように思ったのでしょうか。
徴税人は遠くに立っていました。長く祈り胸をこぶしで打ち続けていました。その態度は極度の悲しみや苦悶を現わすものです。そして短く「わたしに贖い(ヒラステーミ)をください」と唱えました。神に義とされ、送り出されたのは徴税人だったというイエスの言葉に、慰められ、罪責感をやわらげられて安心した人たちが多くいたのではないでしょうか。











