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2023年1月29日

2022年特別企画 メッセージと朗読とイラストによる「イエスのたとえ」紹介シリーズ ⑪「一粒の麦」

イエスのたとえ 第11回

「一粒の麦」

ヨハネによる福音書12章20~26節

(聖書 新共同訳)

20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

 

20 Now among those who went up to worship at the feast were some Greeks. 21 So these came to Philip, who was from Bethsaida in Galilee, and asked him, “Sir, we wish to see Jesus.”
22 Philip went and told Andrew; Andrew and Philip went and told Jesus. 23 And Jesus answered them, “The hour has come for the Son of Man to be glorified. 24 Truly, truly, I say to you, unless a grain of wheat falls into the earth and dies, it remains alone; but if it dies, it bears much fruit. 25 Whoever loves his life loses it, and whoever hates his life in this world will keep it for eternal life. 26 If anyone serves me, he must follow me; and where I am, there will my servant be also. If anyone serves me, the Father will honor him.

The Gospel according to John 12:20 thr. 26
The New Testament in English Standard Version

 

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 この言葉は短くシンプルなものですが、ヨハネ福音書においてイエスの歩みの重要な転換点にあり、時が変わることをも表す言葉です。ヨハネ福音書では前半11章までが宣教の活動を、そして12章からはエルサレムに入城されてからで十字架にかかるまでにイエスが特に弟子たちに言葉と行いと祈りをもって教示された言葉と出来事を記すという構成になっています。つまり死を覚悟して過ごした一週間の記述がヨハネ福音書の半分を、しかも特に前夜の出来事が多くを占めているのです。一人の人の生き様を描くにはずいぶん偏りがあるように思えます。しかし、わたしたちも同様ではないかとも思います。人生の時は、針を刻む時間では測れない、濃密な、重要な時があるのではないかと思うのです。

イエスの宣教の転機はユダヤ教の過越祭の時だったとあります。世界中から巡礼者たちが集まったのだそうです。ヨハネ福音書のみが「ギリシア人」との出会いのエピソードを記します。ギリシア人、つまり非ユダヤ人で神の民ではないけれども、ユダヤ教に改宗した「神を畏れる異邦人」であったのか、それとも何か別の理由があったのかはわかりません。イエスの側近の十二弟子の中でフィリポとアンデレ(ギリシア系の名前です)のつてを通じて「イエスにお目にかかりたい」と丁寧に申し出ます。イエスの名が異邦人にも知られ、求められた、その「時」、イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」と、それまでこの福音書で言い続けていた「わたしの時はまだ来ていない」(2:4,7:8)という言葉を転換されました。

「人の子」は元々人間を表す意味でしたが、当時のユダヤ教の中で救世主(メシア)を呼ぶ称号として用いられるようにもなっていました。イエスの言葉を聞いた者たちの中には、とうとうイエスがローマの支配を打ち破り神の民イスラエルの栄光を回復してくれる時が来たと、期待した人びともいたかもしれません。しかしイエスの栄光とは「一粒の麦」でたとえられたのでした。勝利ではなく死を宣言されたのです。

麦は当時のパレスチナの常食で、ご身近なありふれたものでした。その麦一粒を「いのち」のたとえに用いました。種は落ちて死んだ。そしてそこに新しいいのちが芽生え、多く、豊かに実を結ぶと。

パレスチナの片隅で、何の力も富も地位も持たず、たった一人で活動を始められ、たった数年だけでその活動が断たれ、妬みや憎しみ、裏切りによって十字架でいのちを奪われたナザレのイエス。その一人のいのちが、2000年を経た今も多くの人びとに影響を与え、いのちの希望を伝え続けていることを考えると改めて、奇跡のように思わずにはいられません。神はそのような仕方で、わたしたちに「人が生きること」の貴さ、価値、そして神がどれだけ人を愛され、かけがえないいのちを与えられているのかをも考えさせられます。

「自分の命(プシュケー)を愛する者はそれを失うが・・・命を憎む人は、それを保って永遠の命(ゾーエー)に至る。」。時の転換を宣言したイエスは、人びとにも、この世の自己の命に固執するのでなく、永遠の命に与ることへの転換を呼びかけ、招かれます。それはイエスに従い、イエスに仕えるという仕方によって開かれてゆく、真理であり命の道です。

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