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2022年11月26日

2022年特別企画 メッセージと朗読とイラストによる「イエスのたとえ」紹介シリーズ ⑩「目を覚ましていなさい~門番のたとえ」

イエスのたとえ 第10回

「目を覚ましていなさい」

門番のたとえ

マルコによる福音書13章32~37節

(聖書 新共同訳)

32 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

Mark 13:32-37
The New Testament in English Standard Version

32 “But concerning that day or that hour, no one knows, not even the angels in heaven, nor the Son, but only the Father. 33 Be on guard, keep awake. For you do not know when the time will come. 34 It is like a man going on a journey, when he leaves home and puts his servants in charge, each with his work, and commands the doorkeeper to stay awake. 35 Therefore stay awake–for you do not know when the master of the house will come, in the evening, or at midnight, or when the rooster crows, or in the morning– 36 lest he come suddenly and find you asleep. 37 And what I say to you I say to all: Stay awake.”

 

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 これは「門番のたとえ」と呼ばれますが、教会暦で聖書を読む伝統の教会のプログラムではこの個所がちょうどアドヴェント第一の主日に朗読されるようになっています。待降節、「救い主を待ち望む」というのはどういうことなのかを教えているテキストでもあるのです。

譬えの内容は短く34節の、「家を後に旅に出る人が僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。」という部分です。この設定は「タラントン」(マタイ25)や「ムナ」(ルカ19)とも重なります。主人が留守にしている間、僕たちは役割や責任を託されています。それが不在の時間をどのような意識で何をして過ごすのかということにつながっています。主人がいつ戻ってくるのかは全くわかりません。主人が戻る時には自分たちの執事の仕事についていつでも弁明できるように準備しておく責任がある者たちとして生きるのです。重要な鍵は「気をつけて」「目を覚ましていなさい」という言葉です。

マルコによる福音書はこの譬えを13章の末尾に記しました。この章は「小黙示」と呼ばれます。イエスが終わりの時、苦難の時について語られます。神を偽り語る者たちの台頭、戦争、地震災害、飢饉、政治混乱、不当逮捕、そして神殿の崩壊、「今後も決してないほどの苦難」が来ると綴ります。様々な事象や苦難が起こるとそれが「世の終わり」と結びつけて考えられ、噂が流布します。しかしその中で「気をつけなさい」「目を覚ましていなさい」というキーワードが何度も繰り返されています。マルコ福音書が書かれたのは紀元70年代、ローマ軍によるユダヤ攻撃でエルサレム神殿が崩壊させられた直後の大混乱の渦中でした。しかもキリスト者たちは異端視されて尋問され、ユダヤ会堂から追放されてゆきます。現実の出来事を世の終わりに関連付けて、日常生活を放棄し世の事柄に背を向けたり、知ったかぶって日や時を定めて予言し、人びとに不安を煽ったりする者たちも出ました。または失望から心が冷え、無気力となり、神を信じ頼ることなどやめて、離れてしまう者たちもいたようです。そんな「神不在」「世の終わり」かと思えてしまう時代に、キリスト者たちが、イエスが残した言葉の中から選び取り伝え合ったのが「目を覚ましていなさい」だったのです。

「その日」という表現は旧約の預言者たちが世の終わりを語る特別な預言のキーワードとして用いていました。しかし、世の終わりの時期を見定めようとする者たちのすべての試みや発言に対してイエスの口で「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」(32)と語らせています。父なる神の外は誰も、独り子であるイエスでさえも、その到来の日は知らない、イエスも知ろうとされないのです。だからわたしたちはむやみに日や時を定めようとしたり、終末のことに心奪われ破滅を考えるのでなく、むしろ、わからないからこそ、大事な使命を与えられて今ここで約束を果たしながら主人の帰りを待つ僕たちのように、今この世でなすべき役割を誠実に果たすこと、そして「主人の帰り」に希望を持つことを選ぼうと、キリスト者たちは励まし合ってきたのです。

託された役割はいつの間にか形骸化し、制度化してしまう恐れもあります。神への信仰もそうです。慣例化した儀式や言葉はいつか崩壊します。エルサレム神殿の崩壊はまさに形骸化した信仰や希望の崩壊でした。しかしそれは人間が作り出したものです。神への希望は、そうした作り出したものが崩れたところ、神不在と見える中でこそ、いっそう明確になることでしょう。
「目を覚ましていなさい」イエスは弟子たちにそう語られました。しかし人間にはそれができない弱さがあることをもよくご存じでした。ゲツセマネで必死に祈るイエスの間近で眠り込んでしまった弟子たちに、イエスは「もうこれでいい。時が来た。立て、行こう」(14:41)と励まして言われました。

「目を覚ましていなさい」と言われる方は、いつ目を覚ませるかもわからない私たちのために目覚め続け、祈り続け、傍らに居続けて、守り支えて居続けてくださる方です。だからイエスは宣言されます。無気力に陥らず、世の現象に目を奪われそうになる時にも「目を覚まして」わたしと共にいなさいと。この約束に信頼して、神に希望を持ち、この世を生きぬく者でありたいと願います。

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