教会へいってみよう

関東学院教会へのアクセス

お問い合わせ

TOPICS

2022年10月30日

2022年特別企画 メッセージと朗読とイラストによる「イエスのたとえ」紹介シリーズ ⑨「まことのぶどうの木」

イエスのたとえ 第9回「幹につらなる枝 ~まことのぶどうの木のたとえ~」

ヨハネによる福音書15章1~10節

(聖書 新共同訳)

1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

 

1 “I am the true vine, and my Father is the vinedresser. 2 Every branch in me that does not bear fruit he takes away, and every branch that does bear fruit he prunes, that it may bear more fruit. 3 Already you are clean because of the word that I have spoken to you. 4 Abide in me, and I in you. As the branch cannot bear fruit by itself, unless it abides in the vine, neither can you, unless you abide in me. 5 I am the vine; you are the branches. Whoever abides in me and I in him, he it is that bears much fruit, for apart from me you can do nothing. 6 If anyone does not abide in me he is thrown away like a branch and withers; and the branches are gathered, thrown into the fire, and burned. 7 If you abide in me, and my words abide in you, ask whatever you wish, and it will be done for you. 8 By this my Father is glorified, that you bear much fruit and so prove to be my disciples. 9 As the Father has loved me, so have I loved you. Abide in my love. 10 If you keep my commandments, you will abide in my love, just as I have kept my Father’s commandments and abide in his love.

The Gospel According to John 15:1-10

The New Testament in English Standard Version

 

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 ヨハネによる福音書では、イエス・キリストが「わたしは○○である」という宣言の言葉で、ご自分が何者であり、神やわたしたちとどのような関係であるのか、そして何をなさろうとされているのかを「譬え」を用いて印象深く語られたことを記しています。「命のパン」(6:35)、「世の光」(8:12)、「羊の門」(10:7,8)、「良い羊飼い」(10:11,12)「復活であり命」(11:25,26)「道、真理、命」(14:6)、そして今日の「まことのぶどうの木」と、7つの宣言がなされます。中でも「良い」羊飼い、「まことの」ぶどうの木という言い方は論争的で、他の羊飼いやぶどうの木とは違う、わたしをおいて他にはない、という強い主張がみられます。

イスラエルの人びとは、旧約でしばしば自分たちのことを「ぶどうの木」にたとえて語ってきました。神が造り守られ、養い育てられたぶどうの木として豊かに実を結ぶはずだったのに、神に背き、悪い実を結ばせてしまっている。自分たちが神に特別に選ばれた民であり当然祝福を受けるのだと考えていたイスラエルの人びとに、預言者イザヤはそのように痛烈に民と指導者たちを批判しています(イザヤ5:1-7)。イエスもぶどう園を舞台にしたたとえを幾つも語られました。ヨハネ福音書は、イエス・キリストこそがまことのぶどうの木なのであり、イスラエルの民だから当然救われるなどと考えるのでない。イエスを信じ、イエスにしっかりと「つながる」者が生きた枝となって救いの恵みを受け、豊かに実を結ぶのだと伝えています。

今日の個所で繰り返されるのは「つながる」という言葉です。「つながる(ギリシア語でメノー)」という語は「留まる、待つ、残る、住む、続ける、生き長らえる、生き残る、宿る、泊まる、つるむ」、自動詞だと「もちこたえる、残っている」。他動詞だと「待つ、期待する」と辞書に書かれています。ヨハネ福音書とヨハネの手紙に多く用いられている言葉です。日常で使う普通の言葉を通して、霊的な、信仰的な意味を伝えようとしています。「つながる」に込められた時間の長さ、持ちこたえ、期待して待つことを大事に考えたいと思います。

「つながる」のに3つの鍵になる言葉があります。「キリストの言葉」(15:3)、「願い祈り」(15:7)、そして「愛」(15:9,10)です。イエスと直接会って触れること、交わることはできない。でもつながることはできる。そうつながり続けて来たのが教会です。聖書を読むと、教会の人びとの交わりは、むしろ同じ場所に集まる、触れる、群れることができない状況の方が多く記されています。困難や迫害が多くあり、追い出され散らされる目に遭っていたのです。パウロの手紙などもあなたがたに「会いたい」と繰り返し切望して書かれています。しかし異なる時間や場所にいても、イエスの「言葉」(3節)や「思い」に、「祈り」(7節)や「愛」(9)を行い続けることで、つながりつづけたのが信仰によってつながる人びと=教会でした。まるでぶどうの木のように、細い枝のようです。枝だけを見たら「何の役にも立たない」と思えてしまう。しかしその弱さをちゃんと見ながら、つながることによって生きながらえる、そんなイメージが広がります。イエスの言葉で、枝が「~できない」と、弱さを現わす表現で用いられていることに注目します。「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」これは、無能さを現わすこと以上に、「弱さ」そして「連帯」を大事なものとすることを教えてくれているのだと、あらためて気づかされるのです。弱く、傷つきやすい、いのちの危機に瀕することから、しっかりとつながることに期待と希望があると教えられます。

 

HOMEへ