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2024年6月29日

わたしの教会ストーリー 017 山口信夫さん 「聖書の言葉は真実です」

【写真1 2024年6月16日 夕礼拝にて】

私は、1946年8月5日、長崎県大村で生まれました。広島・長崎に原子爆弾が投下されてから1年後のことです。幸いにも当時父母はまだ結婚しておらず長崎に住んでおりませんので被爆は免れましたが、しかし祖父母は被爆を経験致しました。

私は、幼少年期は非常に虚弱体質で、医者からこの子は三歳までは生きられないと言われたそうです。心配した東京の母方の祖父母が東京へ連れてきて市内の多くの病院を回って診察を受け育てたと聞いていましたので、幼心に不安を抱いていました。実際、三歳まで歩くことができず、言葉も満足に話すことができなかったそうです。しかし、神様は覚えてくださり、生かしてくださいました。

【写真2 幼稚園のクリスマス降誕劇で羊飼い役を演じました。時を経て関東学院教会の「クリスマスの集い」で再び羊飼い役を演じました】

小学生のころは、父母から躾という名で体罰も伴い厳しく育てられました。今思えば、社会人になってからその時の躾や作法が役に立っていることもありますが、幼心には理不尽な毎日を理解できませんでしたので、心に大きい傷が残りました。虚弱な体質と心の傷で不安から死を恐れ「命とは何だろう」「生きる事、人の一生とは」と思うようになりました。そのような時、ラジオの文化放送でルーテルアワー(日本福音ルーテル教会のラジオ伝道放送)を聞き、初めてキリスト教に興味を持ち、通信講座でキリスト教の勉強を始め、生きる意味を知り、わたくしを育ててくださる神様や周囲の大人の人々がいることに気がつきました。それからは、虐待を受けてもいじめにあっても我慢しました。今から思うと神様が共にいてくださったからだと思います。ただ、その時は神様をよく知っていませんでしたので、ゆるすという気持ちが持てませんでした。

中学生になると進路を考えるようになりました。幼児期から消化器系の弱さで、食べ物には異常に興味を示していて、祖父母や父母はわたしに何を食べさせたらよいか苦労したと聞いていましたので、その頃から食に関する仕事をしたいと思いました。高校進学は都立の中野工業高等学校の食品化学科に進むことを決め、三年間、食品の製造と化学を学びました。さらに大村の祖父が缶詰の生産を行っていたので、その後を継ぎたいと思い全寮制の兵庫県川西市にある東洋食品工業短期大学の缶詰製造学科に進学しました。

ここで大切な出会いの機会を得ました。文学の授業で関西学院大学の水谷昭夫先生が講師としてヨーロッパ文学、特にキリスト教文学を教えてくださり、深い感銘を受けました。その中でもイエス様がトマスにおっしゃった「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は幸いである。」(ヨハネによる福音書20章29節)、「人は心で信じて義とされ、口で告白して救われる」(ローマの信徒への手紙10章10節)の聖書の言葉から学ばされ、教会へ行くように推されました。先生の授業でキリスト教に触れ、同級生の行っていたバプテスト派の家庭集会に誘われ、日本基督教団豊中教会で森里忠生牧師から導かれ洗礼を受けました。森里牧師は信仰生活を続けていれば、神様は必ず捉えてくださると教えてくださいました。先日、3週間程前に大阪へ行く機会があり、数十年ぶりに豊中教会を訪ねてみました。会堂は1998年に改修されており当時を偲ぶことはできませんでした。また残念なことに教会が休みで牧師や教会の方にお会いすることが出来ませんでした。わずか2年の大阪での生活は信仰においても勉強においても大変大きな収穫でした。

※水谷昭夫(1928-1988)日本近代文学研究者。関西学院大学教授。キリスト者。

 

【写真3 日本キリスト教団豊中教会の前で】

卒業を控え、さらに勉強したいテーマがあったので大学進学を希望し、明治大学の編入試験を受け合格して農学部農芸化学科で食品化学を勉強しました。東京に戻り自宅で生活するようになったので、日本基督教団番町教会に転入会し、杉浦義人牧師のもと、教会生活を始めました。教会学校での手伝いをして中学生を担当しましたが、自身の信仰がまだ浅いので、夢中で勉強しました。この時期は大学も教会も世の中が混乱の時期で、教会学校は散会してしまい教会の礼拝も持てなくなりました。一時的に日本基督教団銀座教会の礼拝に出席しました。鵜飼猛牧師が大きな心で受け入れてくださいました。大学は混乱のままで学生が大学に入れないロックアウト閉鎖により卒業という名で放り出されました。学業研究は続けたいと思いましたが続けることはできませんで、家業の寿司屋を継ぐことにしました。

高校から大学まで食品の勉強をし、学外での実習もしていましたので、仕事には大変役立ちました。寿司屋という昔ながらの手作業、目分量の世界に計量化、機械化を取り込み、日本各地でのデパートの催事で寿司展に出店し、事業として拡大しました。仕事の合間、出張先で昼の礼拝や諸教会の礼拝を守りました。しかし、父の事業拡大意欲は世情に合わず不採算の店舗が増えましたので、事業の継続が難しくなりました。私は学校、大学で学んで来たことを生かせずに、ただ客待ちだけの毎日を悶々と過ごしていましたのでサラリーマンに転職することにしました。これからは食の洋風化に伴い、スパイスが多く使われる時代になると考え香辛料会社の求人広告に応募して採用され、研究室に配属、品質管理や商品開発に従事しました。水蒸気によるスパイスの殺菌、超臨界(気体であるのに液体の状態を保つ状態)による炭酸ガスでのスパイスの抽出、遠赤外線によるスパイスの熟成などの新技術に携わることができて幸いでした。住居も葉山に移しましたので、信仰生活においては衣笠病院教会に転入会しました。サラリーマンの特権である日曜日に教会の主日礼拝に出席し、役員として奉仕しながら社会奉仕に理解のある倉田一郎牧師のもと、ボーイスカウトの活動、キャンプなどを通して、子どもたちの教育の助けとなることができました。現役で、また定年後も海外への出張や旅行で、各地の教会を訪れた折りには、礼拝や祈りの時を得ました。

1990年ニューオリンズ南部バブテスト教会、 2016年ボルダーパインストリート教会の教会交流会とホームステイ、 2017年ドイツにおける宗教改革500年記念日に参加できたこと、2019年スイスのエムス カトリック教会クリスマス礼拝に親族と参加等々。これらは共に祈る機会を与えられた良い思い出であり、教会は一つの神の家族であると言うことを経験しました。2008年教会に躓き新たな教会を求め文字通り彷徨の末関東学院大学公開講座のキリスト教講座に参加し関東学院教会の松田和憲先生に導かれ転入会を許されて当教会の信徒になることが出来ました。また、神様の計り知れないご計画により髙橋彰先生により両親との確執を執り成していただき罪の赦しをいただきました。父母祖父母は陰になりひなたになり慈しんでくれたと心から思うようになりました。没後50年を経てから分かった馬鹿者ですが、神様がゆるしてくださいました。

顧みると社会生活では新技術幕開けの時、会社からのさまざまな講習会、海外の学会への派遣などにより食品の開発や料理の研鑽の仕事を続けられたことに感謝の念に堪えません。信仰において50数年のクリスチャンとしての毎日が罪の中での生活で、誇ることは何もありませんが、「弱さ、それこそが誇れるもの」(コリントの信徒への手紙二12章5節)とパウロの言葉にあるように、弱さゆえに良き教師良き信仰の友に恵まれ、喜びに満ちた恵まれた教会生活でした。

追浜チャペルが新しく建てられたことを機に、その花壇の手入れを任され花やハーブを植えて道行く人にここに教会があることを知ってもらえるツールとして続けられた事、これからも神様が与えてくださった小さな器を用いてくださるまで奉仕をさせていただき、やがて御国に招かれるよう願います。さまざまなことがありますが、神様は「耐えられない試練には合わせるようなことはなさらず、逃れる道も備えてくださいます。」(コリントの信徒への手紙一10章13節)、「すべてに時があり。すべての出来事に時がある。」(コヘレトの言葉3章1節)とありますが、聖書の言葉は、私の道を照らして下さいました。これらの聖書の言葉は体験を通して真実です。すべてを感謝しています。

【写真4 追浜チャペルの前の花壇の手入れ】

 

【写真5 ご自宅で栽培されたハーブ】

 

【写真6】花の日礼拝に、ご自宅で育てた花を持ち寄り神さまに献げてくださいました。

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