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牧師 髙橋彰から、あなたの心に届けたい、心に響くことば。

2022年特別企画 メッセージと朗読とイラストによる「イエスのたとえ」紹介シリーズ ⑥「善いサマリア人」

イエスの「たとえ」紹介, いのちのたね / 2022年7月8日

25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 

25 A teacher of the Law came up and tried to trap Jesus. “Teacher,” he asked, “what must I do to receive eternal life?”26 Jesus answered him, “What do the Scriptures say? How do you interpret them?”27 The man answered, ” “Love the Lord your God with all your heart, with all your soul, with all your strength, and with all your mind’; and “Love your neighbor as you love yourself.’ ”
28 “You are right,” Jesus replied; “do this and you will live.”29 But the teacher of the Law wanted to justify himself, so he asked Jesus, “Who is my neighbor?”30 Jesus answered, “There was once a man who was going down from Jerusalem to Jericho when robbers attacked him, stripped him, and beat him up, leaving him half dead.31 It so happened that a priest was going down that road; but when he saw the man, he walked on by on the other side.32 In the same way a Levite also came there, went over and looked at the man, and then walked on by on the other side.33 But a Samaritan who was traveling that way came upon the man, and when he saw him, his heart was filled with pity.34 He went over to him, poured oil and wine on his wounds and bandaged them; then he put the man on his own animal and took him to an inn, where he took care of him.35 The next day he took out two silver coins and gave them to the innkeeper. “Take care of him,’ he told the innkeeper, “and when I come back this way, I will pay you whatever else you spend on him.’ “36 And Jesus concluded, “In your opinion, which one of these three acted like a neighbor toward the man attacked by the robbers?”37 The teacher of the Law answered, “The one who was kind to him.” Jesus replied, “You go, then, and do the same.”

 

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イエスのたとえは、神のみ意と言葉を人々に伝えるためにイエスが用いられた方法で、内容は短く、創作された話です。しかし短い中にも、鋭くリアルに表現し強いインパクトを持ち、聞く者たちの心には驚きや問いを生じさせられます。

「善いサマリア人」と名付けられるようになった今日のたとえもその代表的な一つです。文脈や背景など詳しく知らずに初めて聞く者にとっても十分に驚きとインパクトを与えながらイエスが伝えようとする神の意を伝え、思いを行動へと向けさせる力をもっていると思います。それでもなお、丁寧に内容を追うことで、メッセージをより深く思いめぐらし、そしてイエスの呼びかけに応えてゆきたいと願います。また、今日という文脈でこのたとえを読むことでよりリアルに感じられ受け取られることもあることでしょう。

このたとえは枠となっている問答からも意味深いです。質問をしたユダヤの律法の専門家は、イエスを「試そう」として発言したとあります。内容は先日取り上げた金持ちの青年の問いとも重なります。何をしたら、何が得られますか?1世紀当時のユダヤ教での関心事の一つ「永遠の命」というものを、この人も自分が獲得できるものとして考えます。しかし永遠の命とは「神がお与えくださる神と共にある命、生の現実」なのですから、人間が命の量や長さ、質を何か加えて確保するようなものではありません。イエスは律法を知っているのだろうと言われます。律法の専門家は愛神愛隣の二つを組み合わせ(申6:5、レビ19:18)て答えます。イエスはそれを実行するようにと突き放したように言われます。律法の専門家は、自分を正当化するために「わたしの隣人とはだれか」と更に問います。この問いにこそ隣人愛の教えの持つ危険さ、そしてこの人の本音が顕わにされています。「隣人」を相手が何者であるかによって線引きして条件づけて選ぶことです。

イエスは「隣人」にういて人間がこのように神の掟を自己正当化する危険を熟知されていたと思います。山上の説教ではあなたがたは「隣人を愛し、敵を憎め」と言われている(マタイ5:13)と指摘します。後半は律法にはありません。しかし隣人を定義しようとするとそうではない者が線引きされ、その対象への憎悪さえ正当化される危険があることを鋭く指摘されたのです。人がよく生きるための教えや言葉も、人と人を諸条件で分断するのを正当化し容赦なく憎悪(ヘイト)を煽るメッセージに変えることもしてしまうのが人間です。それが行き着く所はいのちが容赦なく狙われる危険の中で自己責任を押し付けられ切り捨てられる社会です。

たとえの「ある人」は徹底的に個人を見分ける記号となる、服や持ち物が奪われ言葉を発することができず、いのちが踏みにじられ危機に瀕して倒れています。ユダヤの祭司、神にまつわる奉仕の仕事をするレビ人という社会で敬われる立場の者が「道の向こう側」を通って去っていきます。それをも正当化させる律法解釈を導くこともできることでしょう。自助を行動原理としたら「この人を助けたら自分はどうなるか」と当然考えることになるでしょう。しかしイエスは「サマリア人」を登場させます。おそらく聴衆のユダヤ人たちの多くが歴史的社会的分断を根拠に「憎悪」(ヘイト)していた存在です。その相手をヒーローの役割に充てます。相手が誰か?でも、自助の原理でもなく、「この人を助けなかったらこの人はどうなるか?」の「憐れみ」の原理で近寄り、傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯し、ろばに乗せ、連れて行き、介抱します。台詞なく連続する動詞に惹きつけられます。これらの中に神礼拝の所作と類似するものがある点も印象深いです。いのちが生かされることを原理としてそこに身を投じるサマリア人は、自身のいのちも危機にさらします。敵意渦巻くエリコの町の宿屋から無事に出発できただろうかと、不穏な余韻さえ残して譬えは終わります。

「永遠の命」は人が獲得所有するものでなく「隣人」は定義して選抜分断することではない。神と共にあって満たされている(シャローム)のいのちは、他のいのちとも共生するために突き動かされてゆき、「隣人である」かどうかを問うことから「隣人となる」ために踏み出すよう心促されます。イエスご自身がそれを成し遂げてくださったからです。

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