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牧師 髙橋彰から、あなたの心に届けたい、心に響くことば。

2022年特別企画 メッセージと朗読とイラストによる「イエスのたとえ」紹介シリーズ ③「種を蒔く人」

イエスの「たとえ」紹介, いのちのたね / 2022年3月27日

「種を蒔く人」のたとえ

1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。
3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。9 耳のある者は聞きなさい。」

(新約 マタイによる福音書 13章1-9節)〔聖書 新共同訳〕

 

1That same day Jesus left the house and went to the lakeside, where he sat down to teach.

2 The crowd that gathered around him was so large that he got into a boat and sat in it, while the crowd stood on the shore.

3He used parables to tell them many things.“Once there was a man who went out to sow grain.

4As he scattered the seed in the field, some of it fell along the path, and the birds came and ate it up.

5Some of it fell on rocky ground, where there was little soil. The seeds soon sprouted, because the soil wasn’t deep.

6But when the sun came up, it burned the young plants; and because the roots had not grown deep enough, the plants soon dried up.

7Some of the seed fell among thorn bushes, which grew up and choked the plants.

8But some seeds fell in good soil, and the plants bore grain: some had one hundred grains, others sixty, and others thirty.”

9And Jesus concluded, “Listen, then, if you have ears!”

(The Gospel according to Matthew 13:1-9 The New Testament in Today’s English Version)

 

 

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

イエスのたとえ話を取り上げる3回目のメッセージです。イエスのたとえはシンプルで、なじみ深い日常の光景を題材にした平易な言葉と表現で、聞いた人びとの心をひきつけ、ゆさぶり、閃き、深く思いめぐらされました。聞いた聴衆が自ら考えた時、神が、自分自身が、そしてこの世界の姿が新たに見え、悟らされてゆくことも起きたのです。そしてそれは人びとに真実を求める思いや、生きる力をさらに与えるものでした。人びとはイエスの譬えを印象深く心に刻み、語り継ぎました。そしてこの「種まき」の譬えは、イエスがなぜ譬えで語られたのかも語られているものとして解説と共に広まり、諸文書で多様な伝承で残されています。

「種を蒔く人」の譬えと題しました。冒頭にイエスが家を出たと始まります。イエスは人びとに神の国の到来を告げる福音を、出かけて行って外で語られました。湖畔で、山で、人里離れたところで、人びとが避けて訪れない病の人や罪人と見なされた人びとの生活するところへ行き、癒し、慰め、教えられました。会堂内で閉じられ人びとへなされた教えではなく、イエスがそのように自ら出かけて行かれた宣教と種蒔く人の姿が重ねて見える時、わたしたちはこの譬えの背後に、どのような時、地にも種を蒔き続けていのちを生み出し、期待され、生かそうとする神の深い意志があることを覚えたいと思います。「種を蒔く人」を教えの題材に選ばれるイエスが、力や効率のルールによって造り出されるのとは違う「世界」をわたしたちに示してくださっていることに希望を見る思いがします。

一方で、この種の譬えは驚きと恐れを生じさせられるのも事実です。蒔かれた種は決して順調ではありません。この譬えには「種」という名詞がなく、「種を蒔く」という動詞で語られているのは日本語訳ではわかりづらいです。種そのものの資質の良し悪しに気を取られるのでなく、蒔かれた、つまり種自体の理由ではない展開へと目を向けさせられます。

農夫は小さな粒の種を、腕を大きく振って蒔き散らします。「落ちる」種が被るさまざまな事態の展開に恐れ、驚き、傷みます。良い土地に落ちて実を結んだものでさえ、百、六十、三十という格差があります。この譬えが、人が語り出すことができない、この世界といのちの現実に目を開かされます。そして自分たちの境遇がまるで重なり合うように感じられ、目を開かされ、イエスが自分たちのことを真に知り、神の言葉を外ならぬ自分たちの真実を語っていると、耳と心が開かれていったのではないでしょうか。譬えは簡潔な内容でありながら、耳が開かれて聞く者にとっては真理を指し示すものとなり、耳を閉ざす者にとっては謎のままです。しかしこの譬えを語られたイエスが十字架へと歩まれたことを覚える時、種の行く末と「実を結ぶ」ことはこの世の結果を超えた希望へと目を向けさせられます。

「実を結ぶ」ことについて、イエスは、おのおの自力でではなく、「わたしにつながって」「愛」を結ぶのだと、ぶどうの木の譬え(ヨハネ15:1-10)では語られています

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