牧師 髙橋彰から、あなたの心に届けたい、心に響くことば。
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わたしの教会ストーリー 001 瀬沼達也さん 「宣教師 スウィージー先生 に導かれて」
いのちのたね, わたしの教会ストーリー / 2021年5月19日

【写真】1980年当時の瀬沼達也さん 湘南海岸にて
信仰上の母があるとすれば、僕にとってRene Sweezey先生がその母である。
1973年、リーニー・スウィージー先生はアメリカ・バプテスト宣教師として来日された。夢の中でイエス様から日本へ行くよう召命を受けたという。折しもその年、僕は関東学院大学に入学し、2年生の先輩に誘われて英語学習の意欲とキリスト教への関心を胸に、初めてスウィージー先生主宰のバイブル・クラスに出席した。それが僕の先生との初めての出会いであり同時にキリスト教との出会いでもあった。そのときの出席者は20名程度だったと記憶するが、その中でさえ、自分は孤独であった。他の人たちがまるで別世界の住人であるかのように思え、呼吸困難を感ずる程であった。その苦い体験は、その後1年間も僕の足をバイブル・クラスから遠ざけた。
2年生になって再び出席できるようになれたのは、親友が熱心に通っていたためである。2回目は少し息抜きができた。そして3回、4回と出席回数を増すにつれ友人ができ、先生にも名前を覚えられてくると、誠に勝手なもので今まで「異国の地」であった場所が「峠の我が家」に思えてくるのであった。それでも学生時代は、クラブの活動時期と重なり出席できないことが度々であった。
大学卒業後、学校に就職してからはバイブル・クラスに熱心に出席できるようになった。当時の先生は、毎週次の宣教活動をされていた。
(月)婦人向けバイブル・クラス
(火)一般向け英語会話、一般向けバイブル・クラス、上級者向けバイブル・クラス
(木)女子短大寮生向け英語会話、同寮生向けバイブル・クラス
僕の知る限りにおいても先生は誠に熱心に宣教活動をされていた。主日(日曜日)は関東学院教会で礼拝を守り、週日の昼間には主に関東学院女子短期大学(当時)で英語教師をされ、毎週前述の活動をされていた。バイブル・クラスでは常に初心者を念頭において御言葉を説かれ、通訳の加納政弘牧師(当時)とも呼吸がピタリと合って、その説得力はすばらしいものであった。英語で話されているにもかかわらず、海のような包容力と温風のような熱気が伝わってくるのであった。
1980年2月、大学の春休みにもかかわらず、先生は休みを返上して希望者を募り、バイブル・クラスを続けられた。このとき、もし先生がこのクラスを開いてくださらなかったら、僕は未だに信者となっていなかったかもしれない。伝道には犠牲が伴うことを身をもって教えてくださった。
その学生の春休み期間に先生は出席者一人ひとりからテーマを出させて発表の機会を与えてくださった。僕は「罪」を選んだ。もう働いていたので、自分の発表日の前日、終日働き、帰宅してから最終の準備をした。しかしあいにくその夕食直後に家庭で深刻な問題が発生した。そのためその本格的準備は、深夜零時過ぎてからようやく始められることとなった。しかも「溺(おぼ)れる者は藁(わら)をも掴む(つか)」ような心理状態で聖書に向かった。『聖書コンコルダンス』(聖書語句索引辞典)を使って、旧約聖書と新約聖書に「罪」の言葉がある全聖句の一句一句を噛み締めるように読み、ノートに書き写した。聖書で語る「罪」が自分に迫ってきた。それらの聖句の中で最もショックを受けたのが、パウロの言葉であった。「罪が支払う報酬は死です。」(新約聖書ローマの信徒への手紙6章23節)。すべての人間は必ず死ぬ。寿命を全うして死ぬ者、病死、事故死、自死などによって人は死ぬ。そう考えていた。しかし、そこには「罪」が原因で死があるという発想は当時の僕には全くなかったからである。
「罪」に関する聖句をすべて読み終えたとき、気が付けばもう朝であった。結局一睡もせず、家を出て、職場に向かった。
その日は火曜日だったので、もちろん仕事があった。就業を終えた後、大学キャンパス内にある宣教師館に向かった。その日のバイブル・クラス出席者は、先生を初め全6名だった。クリスチャンでないメンバーは僕だけだった。後年、僕以外の4名のうちの3名は献身し、日米の神学校に進学、その後、牧師や学校チャプレンになった。
その日のバイブル・クラスで、聖書の罪に関する聖句をすべて読み、昨日徹夜して準備したことを述べ、「罪」とは何かについて発表した。発表後、先生が僕に「それだけ分かっていれば、クリスチャンですよ」とおっしゃってくださった。クラスは、いつも先生の祈りで始まり、祈りで終えていた。今回、先生は「全員でお祈りしましょう」と言われた。出席者は一人ひとり声を出して祈り始めた。僕の番になった。初めはパスをするつもりでいた。それまで一度も他人の前で声を出して祈ったことがなかったからである。しかし、僕以外の出席者、先生を初めすべての人たちが、僕のために祈ってくださった。自分のことしか考えていなかった僕に対して、みんなは、自分自身のことではなく、他人のために心から祈ってくださったことに僕の心の琴線が触れた。聖霊の働きがあり、それまで頑なに閉ざしていた心が開かれ、僕は祈り出していた。そして「僕は罪人です。イエス・キリストを救い主と信じ、バプテスマを受けます。」と信仰を告白した。涙が溢れてきた。その瞬間、その場にいた先生を初め全員が声を上げて泣き出された。喜びの涙である。しばらくの間、言葉を交わすこともできなかった。
この経験を通して「信仰さえも神様から与えられるもの」との実感が僕にはある。信仰は、自分が努力して獲得するものではない。恵みの雨のような神様の無償の愛は、いつもわたしたち一人ひとりに注がれている。そのことに気づき、感謝し、その愛に応えて歩むことが信仰生活である。自分が独りで生きているのではなく、わたしたちは、神様により日々生かされて生きているのである。神様からそのように示された。これからもイエス・キリストの十字架の愛に応えて生きてゆきたいと願うものである。











