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2021年12月27日

わたしの教会ストーリー 005 国津師郎さん 「十字架のキリストが、救い主・牧者」

神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、

わたしたちの行いによってではなく、御自身の計画と恵みによってです。

テモテへの手紙二 1章9節

私は八人家族の中で育ちました。宗教的には無色に近い状態の生活でした。ところが穏やかな日々を過ごす中で、神御自身の計画が進行していたのです。それは、中学を終えようとしていた頃、何か消化しづらいものが、胃の中に入ってしまったような出来事が生じました。上の姉が、ある日の午後、「私は、これから教会に行くが、一緒に行かない?」と、誘いの言葉をかけてくれたのです。「えー?」と驚きの言葉を返しました。姉が教会に行っていることを、そのとき初めて知ったのです。

その誘いの言葉は、不快感を与えるより、私の好奇心を少し刺激したのかも知れません。その日に、生まれて初めて、教会の建物の中に足を一歩踏み入れたのです。その教会は、小規模のカトリック教会で、清潔で温かな感じがしました。迎えて下さった司祭の方は、若々しい方でした。驚いたことに、私が案内された席に着くやいなや、挨拶を抜きにして「国津さん、あなたは神を信じていますか?」と、話題を一点に集中させ、私の反応を待っておられたのです。その問いかけに私は戸惑いを覚えました。神の実在について、その時まで一度も真剣に考えたことがなく、自分なりの答えを持っていなかったからです。

正直に、「信じられません」と答えるべきでしたが、私の口から出た言葉は、意外なことに、強い語調で何かに挑戦するかのように、「自分のこの目で見なければ、神など信じません」というものでした。彼はすぐに話題を転じて、「国津さん、『無から有は生じない』という言葉を知っていますか? 私たちが目にする天や、地や、海は人間が造ったものでしょうか? 人間が造ったものでなければ、どうして存在しているのでしょうか?」と、問われたのです。私が沈黙していると、彼は話を切って、席を立って離れて行かれました。彼はこの件を神にお委ねして、私がやがて主イエス・キリストとのまじわりに招き入れられるようにと、深く祈りを捧げて下さったに違いありません。

この出来事が起きてから、長い間特別な意識の変化はありませんでした。しかし、その司祭の方の問いかけの言葉は、私の心の中で反芻され生き続けたのです。

高校を卒業してから、私の人生は大きく変化しました。地方を出て、苦学を楽しみながら念願だった大学を卒業しました。卒業が近づいていた時、あるミッションスクールから英語教師として採用していただきました。この間、親の保護の下を離れた生活の中で、多くの失敗や挫折を経験しました。その経験を通して、自分には拠り所としている確たるものがないことに、やっと気付いたのです。

教師となって働き始めた次の年でした。夏休みに大学時代の親友の一人が、夏の青年会修養会に誘ってくれました。何か心の拠り所を求めていた私は、すぐ参加することを決めました。その集いには、青年たちを指導しておられる二人の年長者の方と、五、六人の青年が参加していて、第一目の夜は、全員が遅くまで聖書のある箇所(マタイによる福音書16章)について、各自が受け止めていることを順番に発表しました。その真剣なやりとりを聞いて、自分の心の拠り所にするものがこの聖書の中にあるのではないか、との強い意識が与えられました。その時以来、まるで磁石に引き付けられる金属片のように、日曜日にはかなり遠い場所から時間をかけて、教会の礼拝に出席するようになりました。M牧師が説き明かされる聖書の内容を、最初は十分理解が出来ませんでしたが、真剣な雰囲気の中で捧げられる礼拝に出席しているうちに、この教会で自分をしっかりと育てていただきたいという願いが、強く起こされました。また、教会の近くに住み、雑用があれば、時間を気にせずにお手伝いしたいとの思いが沸々と湧いてきました。ある年配の教会員の方にそのことを話しますと、間もなく一軒の借家を探して下さり、教会の近くで生活するようになりました。

礼拝に出席するようになって一年ほど過ぎたころ、M牧師に、「バプテスマ(洗礼)をうけたらどうですか? その準備をします」と声をかけられ、学びの不足を感じていましたが、「よろしくお願いします」と、幼子のような気持ちで、M牧師のすすめを受け入れました。そして、1970年12月20日のクリスマス礼拝の中で、バプテスマに与り、正式に教会のメンバーに加えていただきました。

私にとってバプテスマに与った出来事は、古い汚れた衣を脱ぎ捨て、真新しい衣を着せていただくような出来事でした。大変緊張しましたし、畏れ多いことでした。人生が一変する体験でした。

十五歳の時、カトリック教会のある司祭の方から、「あなたは神を信じていますか?」と問われ、それから約十五年の年月が流れて行く中で、神様の計画は私の中で進んで行き、神様の恵みによって、私は、神の独り子イエスを、キリスト・救い主と信じて生きて行く道へ招き入れられたのです。自分の目で見なければ神の存在を信じられないと断言した私でしたが、あの時に播かれた種は、十五年を経て、芽を出したのです。この間、M牧師をはじめ、多くの方々が私を側面から支え導いて下さいました。もちろん、隠れた存在の方々が、私のために多くの祈りを捧げて下さったこともあると思います。

M牧師からバプテスマを授けていただき、霊的に生まれたばかりの私でしたが、その三ヶ月後に、日本を離れ英国へ行くことが決まっていました。私が英語の教師を続けていくには、力不足であることを見抜き心配しておられた方が、英国で生活をする中で、英語に深く触れるようにと私を送りだす準備を手伝って下さったのです。この方は、学院の理事長であり、聖公会の司教の御一人でした。「私が推薦状を書くので頑張りなさい」と励ましてくださいました。英国南西部のデボンシャーに設立されていた Lee Abbey Fellowship 財団が運営している、クリスチャン・ホリデーセンターで、メンバーの一人として受け入れていただき、1年間働くことになりました。到着してしばらくの間は、言葉の問題で苦しむ時もありましたが、キリスト者の方々と一緒に働く生活は、本当に喜びに満ちたものでした。その後、不思議な導きで Romsey House 神学校に入学を許可されて、1年2か月寮での生活をし、福音書の一部と使徒信条を丁寧に教えていただきました。指導して下さった先生方の高潔な気高いお人柄に接することが出来たのは、私にとってとても幸せなことでした。

英国に滞在していた間に体験したことですが、最初の年、秋も深まった時でした。仕事中に頭痛に襲われたのです。最初何が原因か分かりませんでした。もしかしたら、視力が急速に落ち、それが頭痛の原因ではないかと考え、近くの眼科医で診察を受けました。そこで近視を矯正するメガネをかける必要があることを知らされました。労働許可証を取得していたおかげで、フレームがドイツ製のメガネを無料で提供していただきました。その時英国の医療制度の充実ぶりには驚きでしたが、もっと驚いたことがあります。自分では、ずっと周りのものがよく見えていると思っていたのですが、実際に見えていたのはごく狭い範囲で、視界がぼんやりとしていて、十分に見えていない状態で生活をしていたのです。メガネをかけて初めて、周りのものや、遠くの景色の美しさに見とれてしまいました。眼科医の先生は、「世界一美しい英国の自然を見損なうところでしたね」と、頭痛が治まったことを喜んで下さいました。物事が十分に見えていないのに、良く見えていると勘違いしている事が、おそらく多くあると思います。まさにこの体験は、そのことを象徴的に示してくれた出来事でした。

英国滞在中周りにいた人々は、ほとんど全てがキリスト者でした。教会生活が浅い私でしたが、キリスト者に囲まれた英国での生活は、何故か違和感がありませんでした。日常語に慣れるにつれて、自分が日本人であることさえ忘れるほど、生活に馴染んでいきました。キリストが主として共に歩んでくださる人生は、人種を越え、文化を越えてしまうほど、豊かな生き方であることを深く知りました。与えられるゴールが全く同じだったのです。これは体験してみて初めて理解出来たことです。何故私がこのような素晴らしい体験をさせていただいたのか、考えざるを得ませんでした。そして自分がいろいろなことに挑戦させていただいたことは、自分を自慢し誇るためのものではなく、主イエス・キリストの御人格に出会わせていただき、主との交わりに加えていただくという生き方は、どこに住んでいても、どんな時代に生きても、深い喜びに満ちたものであることを、自分の周りの人々に伝えるために、私の内に神が計画され、実現されたことに気づかされました。

英国から帰国後、関東学院六浦中高の英語科の教師として、三十一年間、教師の道を歩むことができました。家庭生活では、クリスチャンと結婚することが出来、一人の子供を授かり、三人家族で教会生活を何よりも大切にして歩んできました。でこぼこ道を歩む辛い時もありました。しかし五十年以上の信仰生活を続ける恵みを賜わっておりますのは、キリスト・イエスによって、神の恵みを受けたからです。さらに、コリントの信徒への手紙一1章5節「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」とありますように、聖書の言葉を通して、神の導きを日々いただいているからです。

八十歳を過ぎましたが、主が導いてくださった人生を通して与えられている確信は、この受けた恵み、この大きな喜びは、神がその独り子、イエスを、救い主としてこの地上に遣わされたことにより、また、神の御子は私たちと同様に、肉体をとって生活して下さったことにより、また、全能の神が、御子によって、私たちを最善へと導いてくださることにより、生じていることです。

 青年時代に、「自分は何のために生まれ、どこへ向かってどのように生きたらよいのか、そのために何をしたらいいのか」と、真剣に求めました。私は全く知るすべはなかったのですが、神は先手を打って忍耐強く私を導いて下さったのです。この喜びは、真実な神の約束を信じ生活を続けるようにとの励ましです。そして、この喜びは日々湧きあがってくる喜びです。全ての人が最善に生きるようにと、全能の神は、一人一人を愛し導いておられます。

(教会ホームページトップ画像の最前列左から二人目に座られています。)

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